1783(天明3)年、 浅間山が大噴火し、 土石なだれが鎌原村(現群馬県嬬恋村)を埋没させ、 吾妻川に流入して泥流になった、 火口から直線で約20キロ離れた八ッ場には、 波高50メートルを超す泥流が、 時速約70キロで押し寄せた、 下流域も含め約1500人が犠牲になった、 ダム完成後に湖岸となる場所は、 2万4千年前の巨大噴火の、 堆積物でできている、 天明クラスの大噴火が起きれば、 大量の泥流がダム湖岸の、 地すべりを誘発し、 一気にダムに押し寄せ、 ダム本体が決壊する怖れも、 指摘されている。
なるほど、とうなずける意見だ。 今回の震災でも、 万里の長城と頼りにされた大防波堤が、 大津波にいとも簡単に、 乗り越えられている、 自然の猛威はそれに逆らわず、 在るがままの自然の防御力を利用し、 被害を最小限に食い止める工夫で、 受け止めるのが最善である。 旧鎌原村は鎌原宿の呼称で知られた、 北国街道の脇往還である、 信州街道の宿駅の1つだった、 天明の大噴火が起きる直前まで、 約570人の宿の人々は、 慎ましくも生き生きと暮らしていた、 大噴火は火砕流を発生させ、 それは土石なだれを合わせながら、 鎌原宿を呑み込んだ、 宿外れの小高い山の頂上に立つ、 鎌原観音に逃れた数十人のみが、 命を拾っている、 10数年前、小説の取材で、 この鎌原観音堂を訪れたが、 鎌原宿の跡地とあまり標高差はなかった、 土石流に埋没しているので、 実際の鎌原宿はもっと低いところにあった、 麓から高い石段が続いていたらしく、 埋没した部分の石段の発掘調査で、 あと何段か上れば助かったはずの、 親子の遺体がミイラ状態で、 発見されている、 子を背負ったままの姿で、 哀れを誘ったという、 八ッ場ダムの再開是非の論議に、 天明クラスの大噴火を想定したものが、 なかったことが悲しい、 イメージが貧困と云うより、 目先の損得だけで目の色を変え、 子孫のことに考えが及ばない、 国敗れて山河荒れたり、 につながるあさま(浅間)しさ、 と言うほかない。